—煙草盆に宿る時の香り—

赤い椿の絵柄をあしらった敷物の上に、木目の美しい煙草盆を置いています。
銀の吸口が光る煙管(きせる)、ふっくらと灰をならした灰吹き、蓋付きの灰落とし――どれも今では実際に使うことはありませんが、その佇まいはまるで江戸の客間をそのまま切り取ったかのよう。

煙草盆はもともと、火入れと喫煙具を一つにまとめたおもてなしの道具でした。灰吹きにはきめ細やかにふるった灰を入れ、その上に小さな火種を置く。火の煙は少なく、客は煙管を手に取り、蓋付きの灰落としに吸い殻を落とす――そんな一連の所作は、ほんの短い刻み煙草の時間を、ひとつの「間」として演出していました。

煙管は、吸い口・羅宇(らう)・雁首(がんくび)の三つの部分で構成されます。火皿は小さく、一服の時間はごくわずか。だからこそ、その合間に交わす挨拶や世間話が、より濃く、より印象深いものになったといいます。江戸の町人たちは、この短い時間のやり取りを粋と呼び、また商談や人情の潤滑油として大切にしてきました。

当店は今、完全禁煙。煙草盆は火を貸す道具ではなく、時代の趣を伝えるオブジェとして、お客様を迎えています。
しかし、不思議なもので、火の入っていない煙草盆を前にしても、ふと炭火のぬくもりや灰の静けさが感じられます。道具に宿るのは、形だけでなく、そこに流れていた時間の香りなのかもしれません。

今日もまた、この小さな盆が、お客様の視線をひとときだけ過去へと誘ってくれることを、密かに楽しみにしております。

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